西川町の人々
農家も観光業も民宿も、みんな頑張ってきて今がある。リーダーはいるんだけど、今があるのはみんなが頑張ってるから。先人からバトンを受け取った私たちには、地域を守る責務がある。大切なのは、仲間づくりと人づくり。地域づくりにはコミュニティが不可欠。これが大井沢の地域づくりです。
宿場町として歴史を紡いできた大井沢
西川町の中で朝日連峰の麓に位置する大井沢地区は、厳冬2月には3mを超える積雪に覆われ、四季の暮らしが息づく地域です。現在は農業を中心に、民宿や温泉、登山、ものづくり体験に加え、圧倒的な四季の美しさで人々を魅了しています。
かつて江戸時代には、山岳信仰が根付く出羽三山への参詣者が行き交う宿場町として栄え、最盛期には26軒もの宿坊が軒を連ねていました。
時代とともに宿坊や人口が減少し、1954年大井沢を含む4ヶ村が合併し西川町が誕生。この時点の大井沢の人口は1,566名でした。時代が移り変わっても、農家が民宿として営業する「ふるさと民宿」等によって大井沢のおもてなしは継承されていました。
1976年寒河江ダム建設が始まり1990年に完成。ダムの上流に位置する大井沢は“ダムの上流は消滅する”というジンクスを跳ね返す地域づくりを根気強く行っていきます。
当時の人口は499名と大幅に減少していましたが、豪雪を逆手に取り、冬に花火を打ち上げる『雪まつり』の開催や、キャッチ&リリースの取組など。1998年設立の農作業受託組合では退村する方の農地の耕作を請け負い、そばの産地を創りました。そばという名産品を生み出しながら、農地を守ることで景観保全にも繋がり、外に開かれた地域づくりが評価され、2002年農林水産省 農林水産祭の村づくり部門で天皇杯を受賞しています。
しかしそこで立ち止まることなく、年間3,500名の教育旅行の受入や、町を挙げて製作した映画『いしゃ先生』の公開 、都内での移住促進活動「田舎活(いなかつ)」や「いいね!月山市」の開催など、他地域も巻き込んだ地域づくりを進めてきました。
危機感と悔しさを胸に
「役場職員って前面に立つ仕事じゃないのよ。町民が主役だから。大井沢のことがしたいと思って入庁したけど、ほとんど出来なかった。役場を辞めて最後にね、自分がしてきたことって大河の一滴だったなぁって。」観光協会の事務局長就任後も、大井沢のためにできることを模索し続けますが人口減少は止まりません。
「大井沢が消滅するかもしれないという危機感が原動力になっている。守りは後退、挑戦なくして維持はできないと感じ、これまで3、40年やってきたが『あれは正解ではなかったなぁ』と思うこともいっぱいある」
町役場、観光協会では、町内の1つの区のためにできることは限りがある。ならば、大井沢に専念できる組織を自分たちでつくろう。そして考え着いたのは『地域経営』でした。地域経営とは、人や自然、文化などの資源を活かしながら、地域自らが生んだ収益を還元していく仕組みのこと。その仕組みをつくるために仲間とともに新たな一歩を踏み出します。
数多くの挑戦と反省を繰り返し、それでも諦めずに動き続けたからこそ、今の大井沢が存続しています。
挑戦することで未来を守る
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現在、株式会社大井沢I・S・M(イズム)の事業は多岐にわたります。大井沢温泉〈湯ったり館〉や直売所の運営、大井沢産大根の商品開発やフレーバーソルトの販売、原木なめこやわらび園のオーナー制度の取組など。観光面では、夏に行われる清流寒河江川での岩魚掴み取り・塩焼き体験、毎年9月第2日曜に行われる大井沢湯殿山神社の伝統行事〈火渡り神事〉の協働開催、冬は〈雪んこパーク〉でのスノーモービル体験、バナナボートなどのアクティビティを導入し、新たな客層の開拓にも挑んでいます。その他にも、龍太郎さんが関わる飲食店〈まるそばや〉では大井沢産そば粉100%使用した十割そばを提供しています。
大井沢の現在の人口は145名。「自治、行政にも限界がある。人口減少が進んでいく中で、自分たちで地域経営をして、地域に還元する。そして、自分たちの手で大井沢を守る」という覚悟が滲みます。
「ダムが出来たとき、区として水源地宣言をしてる。それを俺が書いてみたんだ」と笑顔で語ります。
当時の水源地宣言を、龍太郎さんが自ら書にしたためました。
水源地である大井沢。この手書きの水源地宣言には、単なる水の繋がりだけでなく『上流の元気が下流にも伝わっていくように』という想いが込められたもの。『大井沢は今日も元気である』。そう語りかけるように、まるそば屋の店内に掲げられています。
【公式】西川町大井沢|大きな栗の木の下で
https://oisawa.com/
公開日:2026/08/05